ログイン週が明けた。
美咲はいつも通り出社した。 けれど、いつも通りではないことが一つだけあった。 蓮から連絡が来ない。 昨日も、その前の日も。 これまでなら、短いメッセージが一つくらい届いていた。 《今日は遅くなりそうです》 《ちゃんと帰れましたか?》 そんな何気ない言葉だった。 それがなくなっただけなのに、美咲はスマートフォンを見る回数が増えていた。 「……何を期待してるんだろう」 自分に呆れながら、画面を伏せる。 仕事に集中しよう。 そう思っても、なかなか頭が切り替わらない。 昼休みになっても、通知はなかった。 美咲は小さく息を吐いた。 忙しいのかもしれない。 そう思えばいい。 それなのに、胸の奥には小さな不安が残った。 その日の夜。 仕事を終えて会社を出たところで、スマートフォンが震えた。 画面には、蓮の名前。 美咲の胸が跳ねる。 《少し会えませんか》 短いメッセージだった。 《今からでも大丈夫です》 すぐに返信する。 待ち合わせ場所に指定されたのは、駅から少し離れた公園だった。 美咲が着くと、蓮はベンチの近くに立っていた。 「蓮さん」 「来てくれてありがとうございます」 「どうしたんですか?」 蓮は答えなかった。 いつもの穏やかな顔をしている。 けれど、どこかよそよそしい。 「何かありました?」 「……美咲さん」 名前を呼ばれる。 その声が、いつもより低かった。 「はい」 「しばらく、会わないほうがいいと思っています」 美咲は言葉を失った。 「……え?」 「突然こんなことを言って、すみません」 「どうしてですか?」 「僕の都合です」 「それだけですか?」 「はい」 蓮は頷いた。 けれど、美咲には分かった。 何かを隠している。 「私、何かしました?」 「違います」 「じゃあ、どうして?」 「美咲さんは何も悪くありません」 「だったら……」 声が震えた。 「ちゃんと理由を教えてください」 蓮は黙った。 しばらくして、ゆっくり口を開く。 「僕と一緒にいると、あなたが傷つくかもしれないからです」 「どういう意味ですか?」 「そのままの意味です」 「分かりません」 美咲は首を振った。 「蓮さんが何を考えているのか、私には分かりません」 「……」 「でも、私は一緒にいたいと思っています」 その言葉に、蓮の目が揺れた。 「だから、勝手に決めないでください」 美咲はまっすぐ蓮を見る。 「私が傷つくかどうかは、私が決めます」 蓮は何も言わなかった。 やがて、苦しそうに目を伏せる。 「……そう言ってくれると思っていました」 「だったら」 「だからこそ、離れなければいけないんです」 その言葉が胸に刺さった。 「どうして……」 美咲の声が小さくなる。 蓮は顔を上げた。 「僕には、あなたに話していないことがあります」 「過去のことですか?」 「はい」 「それは、私が知ってはいけないこと?」 「知ってほしくないことです」 「蓮さんが決めるんですか?」 「……」 「私に知るかどうかを選ばせてくれないんですか?」 蓮の表情が歪んだ。 何かを言いたそうだった。 けれど、結局何も言わない。 「すみません」 それだけだった。 美咲は唇を噛んだ。 悲しい。 悔しい。 でも、それ以上に、怖かった。 目の前にいる人が、自分の知らない何かを抱えている。 それを聞かされないまま、遠ざけられようとしている。 「……分かりました」 美咲はそう言った。 「今日は帰ります」 「美咲さん」 「今は、何を言われても分からないと思います」 蓮は引き止めなかった。 美咲は背を向ける。 数歩歩いたところで、振り返りたくなった。 けれど、振り返らなかった。 一人になった蓮は、しばらくその場から動けなかった。 美咲の姿が見えなくなってから、深く息を吐く。 「これでいい」 自分に言い聞かせる。 これ以上、彼女を巻き込んではいけない。 そう思っている。 それなのに。 胸の奥が、痛い。 スマートフォンが鳴った。 蓮は画面を見る。 高瀬からだった。 一瞬迷ってから、電話に出る。 『桐谷か』 「……はい」 『話がある』 「何ですか」 『五年前の事件について、新しい証拠が出てきた』 蓮の表情が変わる。 「どこから?」 『まだ詳しくは言えない。ただ、あの事件をもう一度調べる必要がある』 「……やめてください」 『何?』 「今さら掘り返しても、誰も幸せにならない」 電話の向こうで、高瀬が黙った。 やがて低い声が返ってくる。 『お前は、本当にそう思っているのか?』 蓮は答えなかった。 『五年前、お前は何を見た?』 「……」 『なぜ、証拠を隠した?』 その言葉に、蓮は目を閉じる。 忘れたことはない。 あの日。 自分が見たものも。 自分がしたことも。 すべて覚えている。 『桐谷。今度こそ逃げるな』 電話が切れた。 蓮は暗くなった画面を見つめた。 そして、先ほどまで美咲が立っていた場所を見る。 「……ごめん」 誰もいない夜の公園で、蓮は呟いた。 その頃、美咲は一人で駅へ向かっていた。 何度もスマートフォンを見てしまう。 もう連絡は来ないかもしれない。 そう思うと、胸が苦しくなった。 それでも、美咲はまだ知らなかった。 蓮が離れようとしている理由が、単なる気持ちの変化ではないことを。 そして──。 この日を境に、二人の穏やかな時間が少しずつ崩れ始めることを。スマートフォンの画面に、一件の通知が表示された。『話したいことがあります』蓮は、その文字をしばらく見つめていた。美咲からだった。胸の奥が、静かに痛む。連絡をしないようにしていた。彼女から離れることで、危険から遠ざけられると思っていた。それなのに、美咲のほうから連絡が来た。しかも。「話したいことがあります」その言葉が、頭から離れない。蓮は一度、画面を閉じた。返事をしなければならない。そう思う一方で、何を返せばいいのかわからなかった。今までのように、曖昧な言葉で逃げることはできない。けれど、本当のことを話せば、美咲を危険にさらすかもしれない。迷った末、蓮は短く入力した。『わかりました。会いましょう』送信する。すぐに既読がついた。そして、少しして返事が来る。『ありがとうございます』それだけだった。蓮はスマートフォンを置いた。「……ありがとう、か」その言葉が、妙に胸に刺さった。二人が会うことになったのは、以前一緒に行った小さな喫茶店だった。夕方。
美咲は、自宅に帰ってからもスマートフォンを手放せなかった。画面には、あのメッセージが残っている。『蓮のことを忘れてください』短い文章だった。それなのに、何度読んでも胸の奥が落ち着かない。誰が送ってきたのか。どうして自分のことを知っているのか。そして何より。どうして、蓮のことを忘れろと言うのか。美咲はソファに座ったまま、蓮とのメッセージ画面を開いた。最後に会った日のことを思い出す。「僕と一緒にいると、あなたが傷つくかもしれない」あのときの蓮は、いつもの穏やかな表情ではなかった。何かを恐れていた。美咲には、そう見えた。「……やっぱり、何かあるんだ」今までは、蓮が話したくないなら無理に聞かなくてもいいと思っていた。過去には誰にだって触れられたくない部分がある。自分にもある。だから、待つつもりだった。いつか蓮が話してくれるまで。けれど。もう「待っているだけ」ではいられなかった。知らないところで、自分にまで警告が届いた。それはもう、蓮一人の問題ではない。美咲はスマートフォンを置いた。そして、ノートパソコンを開いた。
翌朝。美咲は目覚ましが鳴る少し前に目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む光をぼんやり眺めながら、昨夜のことを思い出す。駅で声をかけてきた男性。水城さん、と呼ばれた気がした。けれど、本人は人違いだと言っていた。「……気にしすぎかな」そう呟いて、ベッドから起き上がる。スマートフォンを確認しても、蓮からの連絡はなかった。当然だ。会わないほうがいいと言われたのだから。それでも、画面を開くたびに期待してしまう自分がいた。美咲は小さく息を吐いた。「私、こんなに寂しがりだったっけ」自分で言って、少しだけ笑う。蓮と出会う前は、一人の時間をなんとも思わなかった。仕事をして、本を読んで、休日には好きな店へ行く。それで十分だった。けれど、誰かと一緒に過ごす時間を知ってしまうと、以前と同じには戻れない。それが少し怖かった。会社に着くと、いつものように仕事が始まった。原稿を確認し、編集部内で打ち合わせをする。忙しくしている間は、蓮のことを考えずに済んだ。そう思っていた。けれど、昼休みになった途端、スマートフォンに目が向いてしまう。何も届いていない。
「五年前、お前は何を見た?」 電話の向こうから聞こえた高瀬の声が、蓮の耳に残っていた。 「なぜ、証拠を隠した?」 答えられないまま、蓮はスマートフォンを握りしめた。 五年前。 その言葉を聞くだけで、胸の奥にしまい込んでいた記憶が引きずり出される。 あの日の雨。 濡れた道路。 黒崎誠一の会社の裏口。 そして、開いたままになっていたドア。 蓮は目を閉じた。 忘れたことなど、一度もなかった。 ただ、忘れたふりをしていただけだ。 「……今さら、何が出てきたんだ」 独り言のように呟く。 高瀬は詳しいことを電話では話さなかった。 ただ、新しい証拠が見つかったこと。 そして、それによって当時の捜査を見直す必要が出てきたこと。 最後に、高瀬はこう言った。 「近いうちに会う。今度は、全部話してもらうぞ」 通話が切れる。 蓮はしばらく画面を見つめていた。 頭に浮かんだのは、事件のことではなかった。 美咲の顔だった。
週が明けた。美咲はいつも通り出社した。けれど、いつも通りではないことが一つだけあった。蓮から連絡が来ない。昨日も、その前の日も。これまでなら、短いメッセージが一つくらい届いていた。《今日は遅くなりそうです》《ちゃんと帰れましたか?》そんな何気ない言葉だった。それがなくなっただけなのに、美咲はスマートフォンを見る回数が増えていた。「……何を期待してるんだろう」自分に呆れながら、画面を伏せる。仕事に集中しよう。そう思っても、なかなか頭が切り替わらない。昼休みになっても、通知はなかった。美咲は小さく息を吐いた。忙しいのかもしれない。そう思えばいい。それなのに、胸の奥には小さな不安が残った。その日の夜。仕事を終えて会社を出たところで、スマートフォンが震えた。画面には、蓮の名前。美咲の胸が跳ねる。《少し会えませんか》短いメッセージだった。《今からでも大丈夫です》すぐに返信する。待ち合わせ場所に指定されたのは、駅から少し離れた公園だった。
翌朝。美咲はいつもより少し早く目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む光をぼんやり眺めながら、昨日のことを思い出す。蓮と話した。それだけなのに、胸の奥がまだ温かかった。好きな本の話をした。休日の過ごし方を聞いた。くだらない話で笑った。たったそれだけの時間が、思っていた以上に嬉しかった。スマートフォンを手に取る。蓮から連絡が来ていないか確認してしまい、美咲は苦笑した。「……私、いつからこんなになったんだろう」まだ恋人ですらない。それなのに、少しずつ蓮の存在が日常の中に入り込んできている。嫌ではなかった。むしろ、嬉しいと思っている。だからこそ、美咲は少し怖かった。また誰かを好きになってしまうことが。その日の昼休み。美咲が会社の近くのコンビニへ向かっていると、スマートフォンが震えた。画面を見る。蓮からだった。《今日、仕事は遅くなりますか?》思わず頬が緩む。《たぶん七時くらいです》すぐに返信が来た。《もしよければ、夕食でもどうですか》美咲は数秒、画面を見つめた。